サムライファイル

明智 光秀(あけち みつひで)

(1528~1582)

美濃(岐阜県)生まれ。天下統一を目前にした織田信長を京都・本能寺で暗殺した。織田信長に仕える前は、美濃の斎藤家に、その後、将軍・足利義昭の後見人になった。光秀は信長に信頼されていた家臣であり、信長に謀反を起こした理由は、いまだ明らかになっていない。信長を暗殺し、天下人になってからわずか13日後、豊臣秀吉に討たれ、その数日後に亡くなったと言われている。

朝倉 義景(あさくら よしかげ)

(1533~1573)

越前(福井県)の大名。有能な武士であり、政治的な才能もあったが、織田信長との戦いで敗北し、一乗谷城は落城。朝倉氏は滅亡した。朝倉氏のおさめていた時代の越前は平和で治安も良く、文化的であり、活気があったと言われている。

浅井 長政(あざい ながまさ)

(1545~1573)

近江(滋賀県)の戦国時代の大名。小谷に拠点を置いた。織田信長の義理の兄弟。織田家の敵である朝倉氏と同盟を結んでいた。信長が朝倉を倒し、その後、1573年、信長により、長政および浅井家も滅亡へと追い込まれた。長政は小谷城で自害するが、彼の妻であり信長の妹である市と娘三人の命を守るため、信長の元へと送り届けた。

安国寺 恵瓊(あんこくじ えけい)

(1539~1600)

僧侶、武士。日本の南西部をおさめる毛利家に仕え、交渉役を果たした。政治に明るく、交渉上手であった。反面、とても欲深く、戦に出ることに対しては臆病であった。「朝鮮の役」では豊臣秀吉軍に加わり、その後、伊予(四国・愛媛)を与えられた。1600年「関ケ原の戦い」では西軍につき、合戦後、石田三成、小西行長と共に斬首された。

井伊 直政(いい なおまさ)

(1560~1602)

遠江国(静岡県)生まれ。本多忠勝、榊原康政、酒井忠次と共に、徳川四天王の一人。1560年「桶狭間の戦い」で今川義元が討たれるまでは、今川に仕えた。直政の父は、今川家を裏切ったとされ、義元の息子に処刑された。幼かった直政は、その後、母と暮らし、14歳の頃、徳川家康の小姓となった。
家康から信頼されていた直政は、1600年「関ヶ原の戦い」で先鋒を命じられた。関ヶ原で負った怪我が原因で、2年後に死去した。

池田 恒興(いけだ つねおき)

(1536~1584)

尾張(愛知県)で生まれ。※出生については、美濃(岐阜)、近江(滋賀)など諸説あり。戦国時代の大名。 恒興の父は、織田信秀の重臣。母は織田信長の乳母。信長からもっとも信頼された4人の家来のうちの一人。
1584年「小牧・長久手の戦い」では、豊臣秀吉軍として戦ったが、この戦いで亡くなった

池田 輝政 (いけだ てるまさ)

(1565~1613)

尾張(愛知県)生まれ。織田信長の重臣・池田恒興の次男。
織田信長の元でいくつかの戦に参戦。1584年の「小牧・長久手の戦い」では豊臣秀吉軍として戦った。父・恒興は、この戦いで戦死した。秀吉の仲介により、徳川家康の二女と結婚した。1600年「関ケ原の戦い」では徳川軍として戦い、武功をあげたため、播磨(兵庫県)の姫路を与えられた。現在の姫路城は、池田輝政による改修のもの。輝政の影響力は大きく「西の将軍」とも呼ばれた。

石川 数正(いしかわ かずまさ)

(1534~1609)

三河(愛知県)生まれ。今川義元の人質だった徳川家康に仕えていた。1560年、義元が「桶狭間の戦い」で織田信長に討たれると、家康は人質から解放され、石川数正と本多忠勝が、家康を岡崎へと連れ帰った。家康の妻と息子は、駿府城に今川の人質として残されていたが、数正が交渉し解放させた。
1585 年、数正は突如として家康の元から秀吉の元へと逃亡。彼のこの突然の動きは、家康を驚かせた。数正は家康の戦略を知る人物であったことから、家康にとっては不利な状況となった。

石田 三成(いしだ みつなり)

(1560~1600)

近江(滋賀県)生まれ。13歳のとき、豊臣秀吉に茶を出し、その機転を認められ、召し抱えられた。豊臣秀吉行った朝鮮出兵では、総奉行を任された。賢いが、生意気な面もあったため、敵も多かった。官僚の友人は多くいたが、武士の間では評判が悪かった。豊臣秀吉の死後、天下を狙った徳川家康に対し、豊臣家に忠誠を誓う三成は、戦いを挑み、それが1600年「関ヶ原の戦い」へと発展。日本は大きく2つに分裂した。関ヶ原の戦いで敗北後、斬首された。

今川 義元(いまがわ よしもと)

(1519~1560)

駿河(静岡)生まれ。「甲斐の虎」と呼ばれた武田信玄とは、義理の兄弟。
戦国時代に活躍した大名。政治的にも有能であった。1560年「桶狭間の戦い」で、織田信長に敗れ戦死した。

上杉 景勝(うえすぎ かげかつ)

(1556~1623)

長尾政景の息子。政景がなくなると、叔父の上杉謙信の養子となった。
謙信が亡くなり、上杉家の家督争いが勃発したが、結果、景勝が上杉家の家督を継いだ。のちに、豊臣秀吉の家臣となり、豊臣家の五大老の一人となった。秀吉がなくなると、五大老の一人であった德川家康が天下を狙うため画策しはじめたことに気づき、家康に対し、最初に意見した人物。
1600年「関ヶ原の戦い」では西軍側についたが、西軍は敗北した。翌年、家康に謝罪し上杉家の存続が許された。1614年、15年の「大坂の陣」では德川方として戦った。

上杉 謙信(うえすぎ けんしん)

(1530~1578)

越後(新潟県)の龍として知られる。武田信玄のライバル。戦術に長け、紳士的で、文化人だったと言われる。
彼のライバル武田信玄同様、僧侶でもあった。ライバルであった武田信玄の死を聞いた際には、公然と泣いたと言われる。

宇喜多 秀家(うきた ひでいえ)

(1573~1655)

備前(岡山県)の武将、大名。豊臣政権五大老の一人。妻は、前田利家の娘であり、豊臣秀吉の養女であった豪姫。秀吉が行なった四国、九州、小田原征伐や朝鮮の役にも参加した。1600年「関ヶ原の戦い」で秀家は主力であり、宇喜多軍はもっとも兵力が大きかった。しかし、仲間たちの裏切りにより西軍は大敗した。関ヶ原の戦い後、捕虜となり、八丈島に流刑された。
「関ヶ原の戦い」に参加した大名の中で、最後に死去した人物である。

大谷 吉継(おおたに よしつぐ)

(1559~1600)

近江(滋賀県)生まれ。戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。
豊臣秀吉の家臣。同じく、豊臣秀吉の家臣だった石田三成との友情は深く、1600年「関ヶ原の戦い」でも、石田三成率いる西軍として戦った。
唯一、関ヶ原の戦場で自害した。ハンセン病を患っていたと言われている。

織田 長益(有楽斎)(おだ ながます(うらくさい))

(1548~1622)

尾張(愛知県)生まれ。織田信長の弟。大名、茶人。千利休の弟子。茶道・有楽流を創始した。有楽斎がつくった茶室・如庵は国宝。1600年「関ヶ原の戦い」での東軍として戦った。

織田 信雄(おだ のぶかつ)

(1558~1630)

尾張(愛知県)生まれ。織田信長の次男。伊勢(三重県)の北畠家と織田家の和睦条件として、養子に入った後、北畠家の娘と結婚 。織田信長の死後、織田家の後継者になることを目論んだが、豊臣秀吉の策略により、信長の長男・信忠の息子である三法師が家督を注ぐことが決められた。
その後、豊臣秀吉の家臣となったが、1600年「関ヶ原の戦い」では戦には参加せず、また1614年の「大坂の陣」では、德川方へ寝返った。

織田 信忠(おだ のぶただ)

(1557~1582)

尾張(愛知県)生まれ。織田信長の長男。武田信玄の義理の息子。1575年「長篠の戦い」など戦国時代の数々の戦に参戦し、信長を助けた。 1582年「本能寺の変」で信長が自害したことを知ると、少ない軍勢で明智軍と戦ったが、最後は自害した。

織田 信秀(おだ のぶひで)

(1510~1551)

尾張(愛知県)生まれ。戦国時代の武将、大名、奉行、僧侶。尾張を支配していた織田家の当主であり、織田信長の父。「尾張の虎」としても知られる。病気のため、41歳で亡くなった。

織田 秀信(おだ ひでのぶ)

(1580~1605)

織田信長の長男・信忠の息子。幼名は三法師。父・信忠が亡くなったときまだ2歳だったが、織田家の家督争いでは、柴田勝家は信長の三男・信孝を、豊臣秀吉は三法師(秀信)を推し、結果、家督を継ぐことになった。1600年「関ヶ原の戦い」の直前、秀信が城主をつとめていた岐阜城は、福島正則、池田輝政に攻められ、落城し、その後、出家した。関ヶ原の戦いから5年後に亡くなった。

加藤 嘉明(かとう よしあき)

(1563~1631)

三河(愛知県)生まれ。戦国時代後期から江戸時代初期の大名。父は、徳川家康の家臣。元々は秀吉の子飼衆。1582年「賤ヶ岳の戦い」で活躍した賤ヶ岳の七本槍の一人。豊臣秀吉から厚い信頼を受けた。

金森 長近(かなもり ながちか)

(1524~1608)

美濃(岐阜県)生まれ。美濃の斎藤家の家臣だったが、18歳のとき、織田信長の父・信秀に仕え、その後、家督を継いだ信長に仕えた。1575年「長篠の戦い」でも武功をあげた。1582年「本能寺の変」で織田信長が討たれると、柴田勝家に仕えた。1582年「賤ヶ岳の戦い」で豊臣秀吉に、柴田勝家が敗北し勝家が自害すると、長近は剃髪した。その後は、秀吉に仕え、千利休の弟子となり、利休が切腹した際には、利休の息子を保護した。最後は、徳川家康に仕えた。

蒲生 氏郷(がもう うじさと)

(1556~1595)

近江(滋賀県)生まれ。妻は、織田信長の娘・冬姫。1568年、氏郷が13歳のとき、人質として織田信長の元に送られた。浅井が織田信長を裏切り攻撃した際、氏郷は信長を日野城で保護。さらに信長が岐阜に帰るまで援助した。信長が「本能寺の変」で暗殺された際、氏郷の父は安土城を守備しており、父から、信長暗殺の連絡を受けた氏郷は、信長の妻と子を日野城に隠まった。 松坂城(三重県)と会津若松城(福島県)を築城した。40歳のとき病気で死去した。和歌や文化面でも造詣が深く、茶人・千利休の弟子でもあった。キリシタン大名の一人。

吉川 広家(きっかわ ひろいえ)

(1561~1625)

戦略と外交に長けた戦国武将。9歳のとき、毛利家の家臣である父と共に初陣を果たした。1587 年、父と兄が亡くなり家督を継いだ。秀吉からは、毛利家を支えている、その手腕を高く評価された。1600年「関ヶ原の戦い」の際に、毛利家は西軍についたが、西軍が負けることを予測していた広家は、毛利家を存続させる為、関ヶ原では「戦わない」ことを家康と裏で約束し、領地安堵を取り付けた。

吉良 義央(きら よしひさ(よしなか))

(1641~1703)

賢く、有能な領主であり、将軍からの信頼も厚かった。幕府の儀式などを司る役職、および幕府と朝廷の間の使者としての役割も果たした。
浅野内匠頭に江戸城で切りつけられた「松の廊下事件」は歌舞伎の「忠臣蔵」としても有名。忠臣蔵では、浅野内匠頭をいじめた悪役とされているが、彼のおさめた愛知県・吉良町の人々は、現在でも名君として、吉良公の功績を讃えている。浅野内匠頭の家臣・赤穂浪士に江戸の吉良邸を襲撃され、62歳で亡くなった。

九鬼 嘉隆(くき よしたか)

(1542~1600)

志摩国(三重県)生まれ。鳥羽城城主。織田信長の家臣として、水軍のトップをつとめた。世界初の鉄甲船を作った。 剣術・九鬼神流九代目。
信長の死後、豊臣秀吉に仕え、豊臣軍水軍のトップを務めた。
1600年「関ヶ原の戦い」では、嘉隆が西軍、息子・守隆は徳川家康率いる東軍として戦った。戦いの後、守隆は家康に嘉隆の命を助けてくれるように懇願氏受け入れられたが、それを伝える前に嘉隆は自害した。

黒田 官兵衛(くろだ かんべえ)

(1546~1604)

黒田官兵衞、別名 孝高(よしたか)。その後、如水という名前でも呼ばれた。
戦国時代の大名、軍師。姫路の小寺氏、織田信長、豊臣秀吉に仕えた。
豊臣秀吉とは、とても密接な間柄であった。戦略家である軍師であり、武士としても尊敬された人物であり、機転がきき、勇気があり、忠誠心のある武士としても有名であった。官兵衛は、戦国期の最も激しい時代に生きており、有名なさまざまな戦いにも参戦している。秀吉の成功や活躍の多くは、官兵衛の力によるところも大きく、彼の行動や考えは、日本の歴史を大きく変えたとも言える。

黒田 長政(くろだ ながまさ)

(1568~1623)

黒田長政の父(官兵衛)は、豊臣秀吉の軍師。長政は9歳の頃、秀吉の人質に出され、息子同然に可愛がられた。勇気のある武将であったが、危険を犯すことも多かった為、家臣は長政に対し、度々忠告したと言われる。
豊臣秀吉の「朝鮮の役」にも出陣した。1600年「関ヶ原の戦い」では、忠誠を誓った豊臣家と敵対する徳川家康率いる東軍として戦い、1614年、1615年の「大坂の陣」にも参加した。キリシタン大名の一人。洗礼名はダミアン。

小西 行長(こにし ゆきなが)

(1555~1600)

裕福な商人の息子として生まれる。 商売のため、宇喜多秀家の父(直家)の元を訪れていた際、才能見初められ、宇喜多家の家臣となり武士となった。
その後、豊臣秀吉にも才能をかわれ、秀吉の家臣になり、肥後(熊本)を与えられた。1600年「関ヶ原の戦い」では西軍として戦い、石田三成、安国寺恵瓊と共に斬首された。キリシタン大名の一人。

小早川 秀秋(こばやかわ ひであき)

(1577~1602)

近江(滋賀県)生まれ。豊臣秀吉の甥。叔父だった秀吉の養子になったが数年後、秀吉の実子・秀頼が生まれたことにより、小早川隆景に養子に出された。 1600年「関ヶ原の戦い」では、西軍にいたものの、裏では東軍の徳川家康と内通していた為、戦いの途中で東軍に寝返理、これが「関ヶ原の戦い」の勝利の行方を大きく変えた。この戦いから2年後、21歳の若さでなくなった。

斎藤 龍興(さいとう たつおき)

(1548~1573)

斉藤道三の息子・義龍の息子。美濃の戦国大名。織田信長の甥。14歳で家督を継いだ。父・義龍や祖父・道三は、無慈悲な戦術で知られていたが、龍興は、弱々しく、家臣たちに対しても影響力の弱いリーダーであったと言われる。斎藤家の城だった岐阜城は織田信長に攻め落とされ、力を大きく失った。26歳のとき、織田信長と朝倉義景との間でおきた「一乗谷の戦い」の前哨戦の戦いで、討ち死にした。

斎藤 道三(さいとう どうさん)

(1494~1556)

油商人から、武将、戦国大名になった人物。美濃(岐阜県)をおさめた。
織田信長の父・信秀が道三の城、稲葉山城(岐阜城)を攻めたが、敗北。
道三は信秀と同盟を結び、娘(濃姫)を信長に嫁がせた。無慈悲な戦術で知られていた道三だが、最後は、道三の息子・斎藤義龍によって殺され亡くなった。

佐々 成政(さっさ なりまさ)

(1536~1588)

尾張(愛知県名古屋市)生まれ。織田信長の家臣。
織田信長と浅井氏と朝倉氏との戦いや柴田勝家のもとで戦った上杉家との戦いなどで武功をあげ、越中(現在の富山県)の領地を与えられた。
信長の死後、徳川家康の家臣となり「小牧・長久手の戦い」では、豊臣秀吉と戦った。家康の命令により、成政の親友であり、豊臣秀吉の家臣でもある前田利家の城である能登(現在の石川県)にある末森城を攻撃するが敗北。その後、秀吉に仕えた。

真田 信繁 (幸村)(さなだ のぶしげ (ゆきむら))

(1567~1615)

「百年に一度の英雄」とも呼ばれる武将、大名。武田信玄の家臣・真田昌幸の次男。豊臣家の家臣。戦術にたけており、信繁と父・昌幸は、上田城へ攻めた徳川軍を二度も撃退している。1600年「関ヶ原の戦い」で徳川家康が勝利すると、九度山(高野山)へ追放された。1614年「大坂の陣」では、大坂城の南に出城を作り、3万の徳川軍を7000の兵でむかえ討った。47 歳のとき、1615年の「大坂の陣」で亡くなった。

柴田 勝家(しばた かついえ)

(1522~1583)

尾張(愛知県名古屋市)生まれ。織田信秀・織田信長の家臣。武将、大名。織田信長の死後、織田家の家臣であり、古くからの仲間だった豊臣秀吉と対立し、1583年「賤ヶ岳の戦い」で秀吉と戦った。秀吉に敗北した勝家は、自身の城、福井にある北ノ庄城に火を放ち、妻であり信長の妹である市と共に自害した。

島津 義弘(しまづ よしひろ)

(1535~1619)

薩摩(鹿児島県)の武将、大名。豊臣秀吉・秀頼の家臣。
1600年「関ヶ原の戦い」の際には、徳川率いる東軍方につくことを画策し、西軍のいる伏見城の攻撃に加わろうとしたが、東軍方に信用されず追い返されたため、西軍につくことを決めた。その後、島津は「関ヶ原の戦い」において、重要な役割を果たすこととなった。

仙石 秀久(せんごく ひでひさ)

(1552~1614)

美濃(岐阜県)生まれ。織田信長の家臣だった豊臣秀吉に仕え、家臣のなかで、もっとも早く大名まで出世した人物。1600年「関ヶ原の戦い」の際には、家康の息子・秀忠とともに上田城を攻撃したが足止めをくらい、関ヶ原に到着するのが遅れた。家康は、秀忠に激怒したが、二人の間に入って仲介した。秀忠は生涯、秀久への恩を忘れなかったと言われる。

高山 右近(たかやま うこん)

(1552~1615)

戦国時代から江戸時代初期の武将、大名。彼の父がキリシタンだった影響で、12歳の時に洗礼を受けた。洗礼名は、ジュスト。織田信長、のちに豊臣秀吉の家臣。右近の影響で、キリシタンへと改修した武将、大名が多くいた。
1587年、秀吉が「バテレン追放令」を出し、武士の信仰を禁止したが、右近は、領地と財産をすべて捨て、信仰を貫いた。その後は、小西行長、前田利家などに保護され、暮らした。1614年、徳川家康が「キリシタン国外追放令」を出したため、船でマニラへ。高齢で旅の疲れなどもあったことから、マニラに到着後40日後になくなった。

武田 勝頼(たけだ かつより)

(1546~1582)

武田信玄の息子。織田信長の養女だった最初の妻は、出産時に亡くなった。
二番目の妻は北条氏政の娘・北条政子。1573年「三方ヶ原の戦い」では、父・信玄と共に、織田、德川軍と戦った。その数ヶ月後、信玄が亡くなると、勝頼が家督を継いだ。しかし、 1575年の「長篠の戦い」では、織田・德川軍に大敗。その数年後の1582年、武田家は滅亡した。

武田 信玄(たけだ しんげん)

(1521~1573)

本名は武田春信だが、信玄の名で知られる。甲斐の虎とも呼ばれる。
戦国時代の有能な武士、大名。戦術家であり、戦術のイノベーターでもあった。 信濃(長野県)をおさめていた信玄は、ライバル上杉謙信と「川中島の戦い」で、5回にわたり戦った。

竹中 重治(半兵衛)(たけなか しげはる(はんべえ))

(1544~1579)

美濃(岐阜県)生まれ。竹中重治は、竹中半兵衛としても知られる。
美濃の斎藤義龍と、その息子・龍興の軍師でもあった。天才的な軍師であったが、体が弱く、女性的な面があったと言われる。豊臣秀吉に誘われ、秀吉の家臣となり、その後、近江(滋賀県)の浅井氏との戦いや岐阜城攻めにも参加した。34歳で病死した。

田中 吉政(たなか よしまさ)

(1548~1609)

近江(滋賀県)生まれ(と言われる)。豊臣家に仕えた位の高い武士。 秀吉の死後は徳川家に仕えた。のちに徳川家康の生まれた岡崎城主にもなった。1600年「関ヶ原の戦い」後、岡崎の商業や経済、町の発展に尽力した。

長宗我部 元親(ちょうそかべ もとちか)

(1539~1599)

戦国時代の土佐(四国・高知県)の大名。彼の母は、美濃(岐阜)の斎藤家の娘。四国の全土に領土を拡大した。しかし、豊臣秀吉に領地を奪われ、その後、秀吉の家臣となった。小田原征伐と朝鮮の役にも参加した。

藤堂 高虎(とうどう たかとら)

(1556~1630)

近江(滋賀県)生まれ。数々の武功により、足軽から大名まで出世した人物。主君を7回変え、10人の主君に仕えた。豊臣秀吉の弟・羽柴秀長に仕えていた際には、朝鮮の役にも出兵した。築城の名手として知られ、その彼の功績は、日本全国にある素晴らしいデザインの城で見ることができる。

徳川 綱吉(とくがわ つなよし)

(1646~1709)

徳川五代将軍。母を寵愛しており、政治にも母の助言をよく取り入れた。
また、儒教の教えも彼の思考に大きな影響を与えたと思われる。「生類憐れみの令」を出した綱吉は「犬将軍」とも呼ばれた。「生類憐れみの令」を出すにいたった経緯も、母からの勧めがあったと言われている。

鳥居 強右衛門(とりい すねえもん)

(1540~1575)

長城城の包囲戦では、足軽だった強右衛門は援軍を呼ぶために城を抜け出した勇気ある人物。しかし武田勢に捕らえられ、磔にされる。その際、長篠城内にいる味方に対し援軍が来ることを大声で叫び、エールを送った。こうした功績から、死後、武士へと昇格。鳥居家は、その後も強右衛門の主君・奥平貞昌に仕えた。

直江 兼続(なおえ かねつぐ)

(1559~1620)

上杉家の家老。政治的な才能を持っており、他家の大名との繋がりも強かった。戦略家でもあった。1600年、上杉家による城の築城に対し、許可したはずの家康は謀反の疑いをかけた。これらに関連し、兼続が徳川家康へあてた「直江状」が「関ヶ原の戦い」を引き起こしたとも言われている。

丹羽 長秀(にわ ながひで)

(1535~1585)

尾張(愛知県名古屋市)生まれ。織田信長の宿老。若狭(福井県南部)と近江(滋賀県)を与えられた。 軍事、政治にも長けており、信長の信頼も厚かった。安土城、築城の際には普請奉行を任された。信長の死後、豊臣秀吉に仕え、1582年「賤ヶ岳の戦い」では、柴田勝家と戦った。この戦いでの活躍により、このために越前、加賀(福井と石川県)を与えられた。

福島 正則(ふくしま まさのり)

(1561~1624)

尾張(愛知県)生まれ。豊臣秀吉のいとことも言われる。1578年「三木城の戦い」で初陣を飾る。1582年「山崎の戦い」では武功をあげた。「賤ヶ岳の戦い」では一番槍、一番首を取り「賤ヶ岳の七本槍」の一人とされた。秀吉の元で、いくつかの戦いに参加し「九州征伐」や「朝鮮の役」でも活躍した。「九州征伐」での活躍を認められ、大名となり、今治藩(愛媛、四国)を与えられた。1600年「関ヶ原の戦い」では、徳川軍として戦った。

古田 重然(織部)(ふるた しげなり(おりべ))

(1544~1615)

美濃(岐阜県)生まれ。武士、茶人、陶芸家、作庭家、芸術家。織田信長の使番。戦の動向を報告する役割を担った。茶人・千利休の弟子であり、利休の死後は、天下一の茶人となった。将軍・秀忠の茶道の師でもあった。茶道・織部流、陶器「織部焼」を生み出した。 1600年「関ヶ原の戦い」では、徳川方についたが、1615年「大坂の陣」では、豊臣家への内通を疑われ、徳川に切腹を命じられた。

細川 忠興(ほそかわ ただおき)

(1563~1646)

細川藤孝(幽斎)の長男。戦国時代後期から江戸初期の大名。 織田信長に仕え、15歳で初陣。妻は、明智光秀の娘・細川ガラシャ。1584年の「小牧・長久手の戦い」、1590年の「小田原征伐」では豊臣秀吉軍として戦ったが、1600年「関ケ原の戦い」では、徳川軍についた。関ケ原での武功を認められ九州の北部を与えられ、小倉藩の藩主として、その地をおさめた。
1615年「大坂の陣」に参戦し、その後、隠居した。