サムライファイル
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ほ
本多 忠勝(ほんだ ただかつ)
(1548~1610)
三河(愛知県)生まれ。織田信長、豊臣秀吉をはじめ、多くの武将たちが偉大な武将と認めた人物。幼い頃から徳川家康に仕えた。1570年「姉川の戦い」と、その2年後におきた「三方原の戦い」にも出陣した。 「長篠の戦い」「小牧・長久手の戦い」「関ヶ原の戦い」でも、徳川軍として戦った。
50以上の戦に参加したにも関わらず、一度も傷を負わなかった事でも有名。徳川四天王の一人。
ま
前田 慶次(利益)(まえだ けいじ(とします))
(1543~1612)
尾張(愛知県名古屋市)生まれ。織田信長の家臣・滝川一益の一族に生まれたと言われるが定かではない。同じく信長の家臣である前田利家の兄・利久の養子として育てられた。勇敢で強い武将であり、槍の名手でもあった。
破天荒で扱いにくかったことから、秀吉は「九州征伐」に慶次を参加させなかった。和歌や連歌を読むなど、文化的な面でもかなりの才能を持っていた武将である。
前田 利家(まえだ としいえ)
(1538~1599)
尾張(愛知県)生まれ。戦国時代の武将の中でも、有能であり、かつ影響力のあった人物の一人。槍の名手。織田信長の小姓として仕え、信長が亡くなった後は、柴田勝家、豊臣秀吉に仕えた。秀吉から加賀(石川県金沢市)100万石を与えられた。秀吉が亡くなった後は、五大老として、秀吉の息子・秀頼を支え、豊臣家に代わろうとする徳川家康に対しても強い立場をとったが、1599年、「関ヶ原の戦い」がおこる前年に、61歳で亡くなった。
松平 忠吉(まつだいら ただよし)
(1580~1607)
遠江(静岡県)生まれ。徳川家康の四男。母は家康の側室・西郷局。
1600年「関ヶ原の戦い」が初陣であり、義理の父である井伊直政と共に戦った。その武功を認められ、清洲城など50万石を与えられた。
「関ヶ原の戦い」で負傷した傷が原因となり、27歳の頃、亡くなった。
み
源 義経(みなもと の よしつね)
(1159~1189)
平安時代後期の武将。有能な武将であり、戦術にも長けていた。源氏のライバルであった平家との数々の戦いで活躍し、「壇ノ浦の戦い」では、平家を滅亡へと追いやった。しかし、平家を滅ぼした後、兄・頼朝と対立。頼朝は義経を討ち取るため、逃げる義経を追いかけ、最後、義経は、妻と娘を殺した後、自害した。
源 義朝(みなもと の よしとも)
(1123~1160)
鎌倉幕府将軍・源頼朝、源義経の父。平安時代末期の武将。源家の当主。
天皇家の相続紛争を原因とし、源氏と平家が戦った「平治の乱」で敗北した義朝は、現在の愛知県野間町に逃げたが、そこで家臣に裏切られ、風呂で襲撃され殺害された。
源 頼朝(みなもと の よりとも)
(1147~1199)
愛知県(名古屋市)生まれ。平安時代後期から鎌倉時代初期の武将、政治家。
鎌倉幕府将軍。源氏と平家の戦いは、長年に渡り続いたが、最後は1185年「壇ノ浦の戦い」で源氏が勝利し、平家は滅亡したことで、その戦いは終わった。
その後、征夷大将軍となり、鎌倉幕府を開いた。このときから、19世紀まで武家が国を支配するようになった。
宮本 武蔵(みやもと むさし)
(1584~1645)
武士、剣術家、兵法家、書家、画家、作家。 13歳の時、最初の決闘で勝利し、それ以降、29歳までの間に60回以上の勝負を行い、一度も負けなかったと言われている。17歳の時、1600年の「関ヶ原の戦い」でも戦った。日本を全国を旅しながら、剣術を極めていった。最大の決闘は1612年「巌流島の戦い」。相手は佐々木小次郎だった。1624年頃には尾張(愛知県)に滞在しており、尾張藩で、二刀流、二天一流の元となった円明流を指導している。1640年、肥後(熊本)の細川家に召し抱えられ、晩年を過ごした。兵法書「五輪書」は有名。
や
山内 一豊(やまうち かつとよ)
(1545~1605)
尾張(現在の愛知県)生まれ。9歳で織田信長に仕え、1524年に信長が亡くなるまで家臣として仕えた。その間、1570年「姉川の戦い」、1575年「長篠の戦い」にも参加した。信長の死後は、豊臣秀吉に仕えたが、1600年「関ヶ原の戦い」では、德川家康率いる東軍として戦い、その後、土佐藩(現在の高知県)を与えられ、高知城を築城した。
山本 勘助(やまもと かんすけ)
(1501~1561)
三河(現在の愛知県)生まれ。片目は見えず、片足・片手も不自由だったと言われる。戦略、戦術に長けており、戦国時代の中でも代表的な軍師の一人。
城づくりの才能もあった。武田信玄の二十四将の一人。1561年、第4次「川中島の戦い」で戦死した。
ゆ
結城 秀康(ゆうき ひでやす)
(1574~1607)
結城秀康は、徳川家康の次男。福井城主。生まれは、浜松城の近く。母は、おまんの方。家康には築山殿という正室がいたため、おまんが妊娠した際、家康はそれを隠すため、おまんを自身の家来の家にかくまったと言われる。
秀康が成長すると、彼は多くの戦いで武功をあげた。1600年「関ヶ原の戦い」の後、家康は秀康に「松平」姓を与えた。
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